第三回 和食は一生勉強


 
 
 

 
今は上田市の一部となった長野県丸子町で生まれた飯島祐三は現在69歳。料理人を目指したのは単純に好きだったから。若者特有の東京への憧れと和食の基本となる食材の勉強のために、飯島は浅草の魚屋で働き始める。仕事中に怒られる殴られる日々の中で、仕事の合間に都電に乗って築地へ出かけて食べ歩くのが何より楽しみだったという。3年が過ぎた頃、長男でもある飯島は実家に戻る。新しい職場は、上田にあるスーパーの鮮魚・惣菜部。東京に比べると何と寂しい町なんだろうと思えた。20歳を過ぎる頃、このままでいいのかと焦りを感じた飯島は、鹿教湯温泉の老舗旅館に住み込みで働くようになる。

料理は見て盗めが当たり前、先輩が洗ってしまう前に鍋に指を入れて味見して覚えていく。レシピを教えてもらえるような時代ではない。昭和40年代の旅宿の夕食はひどかったという。鹿教湯温泉が保養地だったこともあるが、品数は朝食より少なく使う魚は鯉のみ。将来を憂いた飯島は、旅館をやめて上田市内の割烹料理店で働き出す。この店で一心不乱に働いた飯島は、ふぐの調理免許を取り、本格的な懐石料理を自分のものにしていた。気がつけば18年の月日が経ち50歳を過ぎた頃、顔なじみだった先代料理長より誘われ「望山亭ことぶき」の厨房へ。1〜2年で料理長を引き継ぎ10数年。指導者としての経験も重ねてきた。
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朝早くから宿に来る飯島は、厨房で1日の段取りを考える。若い頃に教えられたように包丁の刃は常に研いで光らせておく。指導免許を持つ講師としての活動もあるため、出張用の包丁も専用バッグに完璧にセットしている。「望山亭ことぶき」の献立では、料理に応じて川魚と海魚を使い分ける。川魚は信州サーモンを刺身で、鮎や岩魚を焼物で使う。海魚は川魚が苦手なお客もいることと、物流の発達により全国各地から良い食材が手に入るので使っている。もともと魚屋で修行していた飯島にとっては、海であれ川であれ魚の扱いは最も得意とするところなのである。
 
 
温泉地の発展のため、鹿教湯温泉では年4回開かれているのが「鹿教湯料理研究会」。一番の年長であり「技能指導員」の資格を持つ飯島は、この会の理事長を務めている。会では季節の食材を使った料理を、飯島が実演しながら調理方法を参加者に教えていく。古典的な料理の仕事を若い世代に伝えるためレシピも惜しむことなく公開し、それぞれの宿で作ることを推奨している。1kgを超えるほど大きな「大王イワナ」など、県が開発した新食材をいち早く披露する場も兼ねており、最初は4〜5人しかいなかった参加者も今では50人増えてきた。line_s1
2016年に県の料理コンテストで最優秀賞に輝いた「信州サーモンマリネ秋野菜巻き ほうれん草ソース和え」。臼状にくりぬいた大根にもち米と南瓜を詰めたものを土台に使っている。素材そのものを押し出した料理と対象的に多くの手間をかけており、飯島の料理の幅の広さを物語る一品である。

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他にも年に2回は板前同士の仲間「さつき会」で、料理店や師範クラスのいる旅館へ勉強で食べに行く。洋食も積極的に食べて、ソースを和食に取り入れもする。自分の殻に閉じこもってはいけない、色々なものに目を向けながら自分流にアレンジしていく。そうしていつも料理のことを考えているのだと飯島は言う。
飯島が現在の独創的なメニューを作るようになったのは、鹿教湯温泉に若い観光客が訪れるようになったからだという。もともと飯島自身も新しいものを取り入れる性格で、最新のデジタルカメラを使いこなすし、車も新しい車種を乗り継いでいる。大の酒好きでめっぽう強いが、健康に気を使って控えめにしている。体が資本なので山へ川へと食材を求めながら体重もベストを維持している。

 

「和食は一生勉強」やればやるほど新しい味を作る嬉しさがある。「最近は定温調理器が面白い!」新しい料理方法について目を輝かせながら話す表情には、生一本な料理人の清々しさと少年の無邪気さが頼もしく同居していた。

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東京の浅草、上田の旅館や割烹屋で修行後、50代で「鹿教湯温泉 望山亭ことぶき」に入り料理長に就任yaeno-7_s1
長野県  鹿教湯温泉 望山亭ことぶき

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